玉城デニー沖縄県知事 第1回「2歳から親元を離れて生活。育ての親や地域の人たちに支えられて成長」
青い海に個性ある島々、そして南国のおいしい食べ物。以前ママスタセレクトで行った「いつか住んでみたい地域はどこ?」アンケートで、圧倒的最多だったのが、沖縄県です。ママスタセレクトでは、沖縄県の玉城デニー(本名:康裕)知事にインタビューしました。
現在、沖縄県知事として活躍しながらも、プライベートでは「おじいちゃん」でもある玉城デニー知事。幼いころは、シングルマザーとして遠くで働く母とは別に、育ての母がいたといいます。インタビュー第1回は、沖縄の戦後の歩みとともにあった、知事の幼少期について伺いました。
日本人の母とアメリカ人の父のもとに生まれるも
──玉城知事は沖縄でどのような幼少期を過ごされたのですか?
玉城デニー知事(以下、玉城知事):私は1959年10月に与那城村、現・うるま市に生まれました。沖縄は、日本が終戦を迎えた1945年から沖縄本土復帰までの約27年間、アメリカの統治下におかれていました。
私の父親は当時、沖縄の米軍基地に駐留していたアメリカ兵で、母は沖縄生まれの日本人です。母が私を身ごもっているとき、父はアメリカに帰ることになりました。母は、身重な体で長距離移動は体に負担がかかると考え、私を出産してからアメリカにわたるつもりでした。そのため私の名前をデニスと名付けたのです。
──出産後、お母様はアメリカに渡ったのでしょうか?
玉城知事:母はアメリカに行こうと思っていたようです。しかし、まわりが渡米を心配していたこと、母自身も慣れない土地で子育てをできるか不安に感じ、結局はアメリカ行きをあきらめたのです。アメリカにいる父には、手紙で別れを告げたそうです。
気の強い母は、未練を断ち切るためか、父の写真や手紙もすべて燃やしてしまったのです。だから私自身は、父の顔はもちろんのこと、どこの州の出身なのかなど、父に関する情報は一切わかりません。母に聞いても「全部忘れた」と言って教えてくれませんでした。
子育てをするほど十分な収入が得られない
──玉城知事のお母様は、シングルマザーとして子育てをされたそうですね。
玉城知事:母は女手ひとつで私を育ててくれました。私が生まれた1959年は、朝鮮戦争からベトナム戦争への移行時期で、沖縄にアメリカ軍の基地がありました。そのため沖縄には、アメリカ兵を相手にしたたくさんの飲み屋がありました。母は、飲み屋で働く女性たちの寮で、まかないを作る仕事をしていました。
ただ賃金は安く、母が必死に働いても親子2人が暮らしていくほど十分な給料を稼げなかったそうです。そのため母は与那城村にいる知人に私を預け、自分は辺野古で仕事をすることにしたのです。
母の知人=育ての母の家に預けられた幼少期
──何歳から預けられたのでしょうか。
玉城知事:2歳頃からです。与那城村から辺野古までは約50km。車で行くと片道1時間半ほどかかります。そのため母に会えるのは月1回程度。与那城村に住む母の知人は、私を実の子と同じように大切に育ててくれました。だから私には、生みの母と育ての母、2人の母がいるのです。産みの母は「アンマー」、育ての母を「おっかー」と呼んでいます。アンマーとは沖縄の方言で「お母さん」を意味する言葉です。
──寂しくはなかったのでしょうか?
玉城知事:僕は一人っ子でしたが、育ての親である知花家には、育ての母のほかに18歳年上の兄をはじめ、普段はなかなか会えないけれど、アメリカに嫁いだ姉や、金武町に嫁いだ次女がいました。近所には同じくらいの年の子たちがいたため、寂しくはなかったです。
── 何歳から産みのお母さんと一緒に生活するようになったのでしょうか。
玉城知事:小学4年生の頃です。産みの母親の生活が安定してきて、やっと一緒に暮らせるようになりました。ちょうど同じ年、家庭裁判所に申し出て名前をデニスから康裕に変えました。
私が子どもの頃は、貧しくてもみんなで助け合って生活をしてきました。沖縄では、今も貧困問題で苦労している人たちもいます。だから私は、貧困で大変な思いをしている家族が少しでも笑顔で暮らせるようにと貧困対策に力を入れています。
(編集後記)
生みの親と育ての親の双方から愛情を受け、幼少期を過ごした玉城知事。今でも沖縄に残る「みんなで子育て」をまさに体現するお話でした。
第2回では、貧困の背景や問題解決に向けての具体的なお話を伺っていきます。
取材・編集部 文・長瀬由利子 編集・荻野実紀子 イラスト・ゆずぽん