震災後にPTAで学校に食ってかかったことは、間違いだったのだろうか…… #あれから私は
2011年3月11日に起きた東日本大震災。筆者の子どもは幼稚園年長と小学2年生でした。筆者が住んでいる地域では震度5強を観測して、家の中では本棚からすべての本が雪崩のように落ちてきました。あそこまで強く長い揺れ、本棚の本が全部落ちてしまうようなことはそれ以前に経験したことがありません。さいわい家の中の大きな被害はそのくらいでしたが、直後の停電と当日の夜8時ごろから始まった断水によって数日は不自由な生活となりました。新潟県中越地震のときにも停電しましたが、夜には復旧したと記憶しています。でも今回は揺れの強さから「停電が長くなるかもしれない」と思いました。
三陸のほうの津波の被害を知ったのはかなり後になってからです。ネットもつながらない状況だったので情報が入ってこなかったんです。夜になるころだったでしょうか、私が住んでいる地域には自治体の班があって、班長さんから「津波でかなりひどい被害が出ている地域があるらしい」と教えていただきました。
地震から2時間後に歩いて帰ってきた小学2年の息子
地震が起きたとき、年長の娘は私と一緒に家にいましたが、小学2年生の息子は学校にいるタイミングでした。停電で自宅の電話は通話不可能、携帯もつながらなくなってしまっていて、学校と連絡を取ることが叶いません。自宅付近では家が倒壊するほどの被害はなさそうでしたし、別の地域では甚大な被害が出ている大地震だということもまだ知りませんでしたが、「どうもこれまで経験したことのある揺れとは違う」と胸騒ぎがしました。学校まで迎えに行くべきなのか迷いましたが、道路は大丈夫なのだろうか、また大きな地震がきたら……と思い、様子を見るためにもう少し待った方がいいだろうと判断しました。学校も何かしら対策を考えているだろし、おそらく子どもたちはしばらく学校にとどまっているだろうと思ったのも理由の1つです。
でも地震が起きてから2時間くらい経ったころでしょうか……、息子が帰宅したのです。しかも歩いて。さすがに1人ではなく登校班のみんなと一緒でしたが、正直びっくりしました。通学路の安全は確保されていたのか? 余震の可能性は? など親として不安になることばかりだったからです。「道路、大丈夫だったの?」と息子に聞いたら「◯◯さんの家の塀がちょっと崩れていたし、信号も止まっていた」と。通学路の安全は確保されていなかったのです。
学校への不信感、そして怒り
その瞬間筆者が抱いたのは、学校への不信感でした。こんななかで子どもたちだけで帰宅させるのはアリなのだろうかと思ったのです。他の保護者も同じように不信感を覚えたようでした。新年度を迎えて初めてのPTAのときに、学校の対応について他の保護者と話してみたところ、「あれは問題だったのでは?」という意見が多かったのです。そんなことからPTAで学校側に説明を求めることにしました。そのときにはもうどれほど甚大な被害をもたらした地震かということもわかっていましたから、「子どもの安全が脅かされた」という思いがいっそう強まっていて、学校に食ってかかったと言ってもいいくらい強い口調だったと思います。
学校への抗議
PTAの話し合いで学校へ質問をしたところ、学校側は「道路は安全だと思ったし、(停電で作動していない)信号のある道路を渡るところまでは教師が付き添った」と説明しました。親としては「信号のところまでですよね?」という話です。道路を渡った後も、途中、塀が崩れているようなところもありました。それにもかかわらず「安全を確保した」という学校側の意見には納得ができませんでした。「もし余震があって、子どもたちが塀の下敷きになったらと考えなかったのですか?」と聞いたら、「暗くなる前に家に帰宅させた方がいいと判断した」とのことでした。
10年経った今思うこと
当時、学校側に抗議をした筆者と他の保護者は、まさにモンスターペアレント同然だったろうと思います。今思えば、冷静さを欠いていたとも感じます。だからこそ10年経った今、「あのとき学校に食ってかかったのは正しかったのだろうか」と考えるようになりました。理由は以下の2つです。
・学校と保護者とが連絡が取れない状況にあった
・学校も保護者も周辺とそれ以外の地域も含めた地震の被害情報を得ていなかった
電話がつながらない状態だったので、学校と保護者間で連絡の取りようがありませんでした。そのままでは学校に向かってしまう保護者もいたかもしれません。それならいっそ、何とかして保護者に引き取りに来てもらう案も挙がったのかもしれませんが、途中で何があるともわかりません。地震が起きたのは平日で、土地柄、クルマで遠方に仕事に出ている保護者も少なくなく、そこから学校までの道中の状況も不明です。
テレビも電話もつながらず、今ほどスマートフォンも普及していなかった当時。そもそも地震直後は地域ごとの被害状況などの詳細な情報があまり伝わってこなかったのです。判断材料が少なすぎるなかで、学校は「明るいうちに」を基準に子どもたちの帰宅を決めたと言います。それはあらゆる手段を探って、保護者に「無理にでも迎えにきてください」とお願いするよりも、まだ明るいうちに子どもを帰宅させたほういいだろうと思ったからではなかったか……。そのほうが家で待つ保護者も安心できるだろうし、また保護者の誰かが危険を冒してまで学校へ向かおうとするのを防げるのではないかと……。
10年経過した今だからこそ冷静になり、「もしかしたら筆者たちの抗議は間違いだったのではないか」とも考えます。保護者は子どもの安全を第一に考えるから、学校の対応に怒り、粗探しをしてしまいました。でも学校も当然ながら子どもの安全を第一に考えてできる限りのことをしてくれたはずで、もしかすると保護者たちから抗議されるのは不本意だったかもしれません。両者ともに歩み寄れるほどの余裕も情報も持ち合わせていなかったのです。
抗議をしたことでマニュアルができた
一方で保護者からの意見が出たことで、災害時における学校独自のマニュアルができました。自治体にも一定のマニュアルがありますが、学校の規模や立地、保護者との関係性は地域や学校ごとに異なるでしょう。「その学校にあったマニュアルが必要では」という話になったのです。保護者の意見をふまえてできたマニュアルの中には「災害時に通信手段が途切れて連絡が取れなくなった場合には、見える場所に白い旗を立てる」という項目がありました。子どもが通っていた小学校は高台にあり、「この旗が掲げられたら迎えにきてください」という印です。反対に通信可能な場合には一斉メールが届くことになりました。そのころは学校と保護者間が、保護者同士もSNSを通じて連絡を取り合うスタイルが浸透していなかったので、担任の先生が保護者が登録したメールアドレスに発信するスタイルでした。さいわいにも今のところ、そのマニュアルが役に立つ事態には至っていませんが、筆者たちの抗議が‟これからを考えるきっかけ”にはなったのではないかなと思えています。
正しかったのかの結論は出ないけれど……
学校側に猛烈に抗議したことが正しかったのかどうかについて、筆者の中では今だに結論は出ていません。翌年には校長先生と教頭先生が異動になりましたし、誰もがモヤモヤした気持ちを抱え続けているのかもしれないなと思うこともあります。でも大切なのは正しいか正しくないかの結論を出すことではなくて、当時のことを思い出しながら考え続けることかもしれません。
いずれにしても、震災後に学校と保護者や子どもが一緒になって災害時のあらゆる可能性について考え、そのときに最良と思われる対策を模索出来たことはきっとプラスだっただろう、そう思いたいです。
文・編集部 イラスト・Ponko 編集・blackcat