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「子育てを通して親自身が生き直している気がする」ことへの不安感について

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子育てをしていると、時折まるで「人生を生き直しているような感覚」にとらわれることはありませんか?
私の場合、我が息子が4歳になる少し前あたり、新生児や乳児時代とは手のかかり方が異なってきたあたりからそう感じるようになりました。

私は女性で子どもは男の子。姉妹の姉として生まれ、我が母も三姉妹……と親戚じゅうがオンナだらけという環境で育ったせいもあって、男の子の人生なるものがほとんど未知の世界であるに等しいせいかもしれません。

子どもと共に行動するうち自分のライフスタイルまで一新したような気に……

電車や飛行機に熱中し、ザリガニ釣りをする。

体いっぱい使って運動をする。

バットを振り回して素振りに余念がない。

登園しては覚えて帰ってくる、「ば・か・や・ろ・う」、「ママなんかぶっとばせ」、「コ・ノ・ヤ・ロ・ウ」などのいわゆる男言葉。

挙げだすとキリがありませんが、そんなふうに日常のどのシーンを切り取ってみても、女性の私が未経験だった事柄が少なくないのです。

あれやこれや子どものすべてを目の前で見て付き合うのは正直、ヘトヘトになるし、傷つくこともあるし、「なんだと!?」と怒り心頭に発することもありました。

ところがあるとき、ほんとうに突然に、不思議な感覚を覚えたのです。

「なんだか私、生き直しているみたいだなぁ」

初体験を多く繰り返すうちに、私自身がそれらを楽しめる余裕が生まれていたということなのでしょうか?

行動的、活動的な日々も悪くないなとニヤリ、SNSにも旅記事を連投したりしていました。らしからぬ自分のライフスタイルに私本人が驚きながらも馴染んでしまっていたのです。

でもまたあるときに、ふと我に帰るのです。

「こうして世の母たちは、子どもの人生をコントロールする存在へと陥っていくのではないか」と。

親の希望が子どもの希望よりも優先されている……そうなったときに私は気づけるか

最初は「息子が」楽しいと思うことを一緒にしていました。しかしそのうちに「私」が主体となり、「これをしたら子どもは喜ぶに違いない」という視点で遊びの内容、出かける先を決め、押し付けるようになる可能性がありはしないだろうか。

いや、もしかしたらすでに、そうしているのかも。

”私がやったことのない事柄”に対し、「あのときやればよかったな」→「楽しそうだな」→「せっかくだからやってみたら?」という「親の希望」を元に子どもを促す自分がいる。子どもから出てきた希望が、私に「えー、それはやりたくないな」「私はそれ好きじゃない」という気持ちを芽生えさせることがあるのも本当のところなのです。

今はまだそれが、その日に見る映画やお出かけ先という選択肢で留まっているからいいようなもの。しかしあと少しすると、やりたいスポーツ、習い事、行きたい学校など、より大きな人生の選択を迫られる場面が続々とひかえています。

もちろんその選択にあたり、親には子どもが考えるヒントを与えたり、子どもの本音を引き出したり、背中を押してあげたりする責任はあるでしょう。ただ親の意思を押し付けることはしてはいけないはず。それは子どもの人生を親がコントロールしているということですから。

しかし息子が4歳の今は、「親の意思の押し付け」をしないか、少々自信がありません。

「子どもは一個人である」子離れする日をイメージトレーニングしておきたい

4歳の今のうちから子離れについて考えるなんて早すぎると言われそうですが、それでも私のような、考えすぎて方向性を見失うタイプは、「子離れする日」を思い描きイメージしておくほうがいいように思います。

すでに4歳ともなると、子どもの意識も外へと向かいつつありますし、世界が広がりつつあるのがわかります。「ママ、ママ」と追いかけてくれなくなる日は遠くないのです。

子どもが生まれて来てくれたことで、親はたくさんの“はじめて”を経験させてもらえ、毎日毎日新鮮な発見に驚いたり、泣いたり、笑ったり。でもそれはきっと親の人生に深みが増したということ。親は決して、「生き直している」わけではないのですよね。

小さいながらも子どもには子どもの人生があります。今夜もまた、園で覚えてきたどんな男言葉を聞けるのかを楽しみに、彼の人生を客観的に見つめられる母を心がけます。

文・編集部 編集・しのむ