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【障害のある人の仕事・第1回】アートを仕事にする福祉施設「PICFA」立ち上げのきっかけは

PICFAスクリーンショット

日本で初めて病院内に開設された障害者福祉施設「PICFA」。ここでは知的障害や自閉症、ダウン症などの障害のある方20人ほどが創作活動を仕事にし、社会と繋がっています。活動内容は、絵画やデザイン、オリジナルグッズ制作、またイベント企画や実施など。創作されたアート作品は、ショッピングサイトで購入することもできます。

施設長の原田啓之さんは、知的障害のあるお兄様との幼少期のある経験から福祉の道へ進み、PICFAを立ち上げました。ママスタセレクトでは、原田さんにインタビューを実施。第1回では、原田さんが知識障害のあるお兄様と過ごすなかで学んだことについてお伝えします。
PICFA_harada.Prof

知的障害の兄とともに育った、壮絶な少年時代

――原田さんが福祉の道に進み、PICFAを立ち上げたきっかけは何だったのでしょうか?

PICFA施設長 原田啓之さん(以下、原田さん):きっかけは、知的障害のある兄の存在です。幼い頃から、母が苦労している姿を目の当たりにしてきました。
僕は子どもの頃、兄と一緒に遊びに行くことがありました。しかし友達と遊んでいても、兄だけがルールが理解できないので、子どもたちの輪からはみ出してしまうんですよね。缶蹴りでは1人で缶を持って走って逃げてしまったり、サッカーしようとしてもボールを手に持ってゴールに突っ込んでしまったりとか……。
連れて行くと、金属バットで殴られたり石を投げられたりするようになりました。

――暴力とは、ひどいですね。

原田さん:環境のせいもあると思います。僕が育ったのは、いわゆるスラム街のような場所でたくさんの団地が集合し、学年をこえて皆で遊ぶような場所でした。小学校3年生のときには、周りの同級生はほぼ全員タバコを吸っていました。理科室で爆発が起きたり、放火で給食室が全焼したりと、今では考えられないようなことが日常茶飯事でしたね。

兄の障害を受け入れた日

PICFA01

――そんな環境の中では原田さんも悩みが大きかったのではと思います。お母様にご相談されることはあったのですか?

原田さん:いえ、みんなに殴られたり石を投げられたりしていたことは、母には言えませんでした。母の悲しむ顔を見たくなかったので話すことはありませんでした。でも、仲のいい友達もいるし、ただ単純に友達と遊びたかったんです。
あるとき、「兄を家に置いていけば友達と遊べる」と考えた僕は、兄を家の柱にロープで縛り付けて遊びに行ってしまったんです。兄は、僕とそういう遊びをしていると思っていました。兄が一緒にいないと友達と楽しく遊んでから家に帰ってくると、柱に縛られたままの兄の前で、母がうなだれていて……。母は僕に「あなたがこういうことをするんだったら、私が死ぬときにこの子を殺してから死にます」と言ったんです。それがすごくショックで。「なんてことをしたんだろう」と気付いたと同時に、兄の障害を受け入れた瞬間でもありました。
この出来事がきっかけで、僕は兄の障害を深く理解し、彼を守っていかなければならないと思い行動していくようになりました。それが小学校3年生の出来事でした。

大学での学びから、福祉の現実を変えようと決意

――そうして福祉を学ばれていくことになったのですね。

原田さん:もともとはソフトテニスで日本一になり、ソフトテニスで進学する道もありましたが、母のこと、兄のことが頭から離れず、結局福祉の道を選びました。福祉を学ぶなら当時一番進んでいる大学に行きたいと浪人と編入学を経てやっとの思いで日本福祉大学に入り、そこで障害を持つ人の生き方について学び始めました。
卒業論文の研究では障害を持つ人の保護者100人にアンケートを取り、多くの人が「障害のある我が子を残して死ぬことへの不安」を抱えていることを知りました。

――その保護者の不安というのは、具体的にどういったことでしょうか。

原田さん:不安のひとつが「親子で一緒に暮らしていたような生活ができなくなる」ということです。当時、兄が通所していた障害者施設の工賃(賃金)は月3,000円ほどでした。障害者年金で、施設を利用すれば衣食住は確保できます。しかしこの賃金では、親の財産を残してくれなければ、好きなことすらままならない。
「障害のある人たちが、好きなことを仕事にして、ちゃんと稼げるような仕組みを作りたい」そう思って、2002年に福岡で音楽とアートを仕事にする福祉施設の立ち上げメンバーで15年ほど働きました。現在は、PICFAを立ち上げ、学生時代に考えていたことを実践しています。PICFAでは、全国平均の数倍で平均的に月の工賃は6万円を超えるぐらい出すことができ、賞与も支払えるようになっています。

編集後記:
原田さんの少年時代のお話は、想像もつかないような壮絶なものでした。しかし、そんな経験があったからこそ、原田さんは障害のある方の気持ちを深く理解し、PICFAのような施設を立ち上げることができたのだと思います。次回はPICFAの具体的な取り組みや、現在のような活動に至るまでの経緯について詳しくお伺いします。

※取材は2024年6月に行いました。記事の内容は取材時時点のものです。

第2回へ続く。

取材、文・nakamon 編集・しらたまよ

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